LOGIN月曜日の朝、達哉を送り出してから、沙耶はコンセプト案の最終確認をした。
金曜日に骨格を作って、土曜日に細部を詰めて、日曜日は義実家に行ったので触れられなかった。昨夜、帰宅してから少しだけ見直して、これでいいと思った。でも今朝、もう一度開いてみると、また気になるところが出てくる。 デザイナーの性分だと思う。 完璧なものなど存在しないのに、完璧に近づけようとする手が止まらない。どこかで「もういい」と決断しないと、永遠に送れない。 沙耶はコーヒーを一口飲んで、画面を見た。 キーワードは三つに絞った。「静かな強さ」「等身大の誠実さ」「一歩先の自分へ」。この三つが、神崎の言っていた「堅すぎず、でも軽くもない」という方向性と重なると思った。色のトーンはオフホワイトとテラコッタとダークグリーン。フォントは明朝体ベースで、でも少し柔らかいものを選んだ。 これでいい。 今日こそ、そう決めた。 沙耶はメールを開いて、ファイルを添付した。 神崎様 お世話になっております、岸谷です。 コンセプト案をお送りします。 方向性の確認ということで、まずはラフな段階のものになりますが、 ご意見をいただけますと幸いです。 よろしくお願いいたします。 岸谷沙耶 送信ボタンを押した。 今日で何度目だろう、この緊張は。押すたびに少しずつ慣れていくかと思ったけれど、神崎へのメールだけは毎回、指先がわずかに固くなる。 返事が来るまで、他の仕事をしよう。 沙耶は気持ちを切り替えて、カフェのロゴ案の最終調整に取りかかった。 返信が来たのは、二時間後だった。 他の仕事に集中しているつもりだったけれど、通知が来た瞬間、沙耶の手は止まった。 メールを開く。 岸谷さん ありがとうございます。拝見しました。 率直に申し上げます。 予想を、はるかに超えていました。 特にキーワードの「静かな強さ」という言葉、 私が伝えたかったことを、私より正確に言語化していただいた気がします。 色のトーンも、ターゲット層への解像度が高い。 一点だけ確認ですが、フォントの選択に迷いがあるように見えました。 意図的なものであれば問題ありませんが、 もし迷っているなら、一度話しましょう。 来週、改めてお時間をいただけますか。 神崎蓮 沙耶は、しばらく画面を見たまま動けなかった。 予想を、はるかに超えていました。 その一文を、三回読んだ。 お世辞かもしれない。クライアントが外部のデザイナーを気持よく動かすための、定型文かもしれない。そう思おうとした。でも、メールの文面はそういう雰囲気ではなかった。神崎の言葉はいつも過不足がない。褒めすぎることも、必要以上に謙遜することもない。 それに──フォントへの指摘。 沙耶は画面を見た。確かに、フォントだけ少し迷っていた。明朝体ベースにすると決めていたのに、最後の最後でゴシック系のものと並べて迷って、結局明朝体に戻した。その迷いが、画面に滲んでいたということだ。 見える人には、見える。 沙耶は小さく息を吐いた。嬉しいのか、恥ずかしいのか、自分でもよくわからなかった。ただ──自分の仕事が、ちゃんと読まれた。その事実が、胸の中で静かに広がっていた。 返信を書いた。 神崎様 ありがとうございます。 フォントについては、ご指摘の通りです。 最後まで迷っていました。 ぜひ来週、お話しさせてください。 岸谷沙耶 送信してから、沙耶は椅子の背もたれに体を預けた。 窓の外は、穏やかな午前の光だった。風が少しあって、カーテンの端が揺れている。 予想を、はるかに超えていました。 その言葉が、まだ胸の中にあった。 達哉に言われた言葉を、沙耶は無意識のうちに集めてきた。「どうせ大した仕事じゃない」「続かないでしょ」「誰でもできそうだけどね」。それらが積み重なって、沙耶の自己評価の床を作っていた。低くて、薄くて、少し踏み込むとすぐに沈む床。 でも今、その床のどこかに、小さな杭が打ち込まれた気がした。 私の仕事は、誰かの予想を超えられる。 たった一度の評価で全部が変わるわけじゃない。でも──杭は打ち込まれた。抜こうとしても、簡単には抜けない何かが、そこに刺さった。 昼過ぎ、スマートフォンに母からの電話が来た。 「沙耶、久しぶり。元気?」 美和の声は、いつも少し大きい。明るくて、遠慮がなくて、沙耶が子供の頃からずっとそうだった。 「元気だよ」 「声、明るいじゃない。何かいいことあった?」 さすがだと思った。電話口の声だけで、母にはわかる。 「仕事で、ちょっといいことあって」 「あら、何々?」 沙耶は少し考えてから、話した。神崎蓮のこと、KAN DESIGN LABのこと、コンセプト案を送ったこと、返信に「予想を超えていた」と書いてあったこと。 美和は話を全部聞いてから言った。 「すごいじゃない、沙耶。それ、大きい仕事でしょ」 「まだどうなるかわからないけど」 「でもすごい。ちゃんとすごい」 美和の声に迷いはなかった。条件も、留保もなく、ただ「すごい」と言った。 沙耶の目が、じわりと熱くなった。 なんで泣きそうになるんだろう。 「達哉さんも喜んでくれた?」 一瞬、間があった。 「……まだ話してない」 「あら、そう」 美和の声のトーンが、少しだけ変わった。何かを察したような、でもそれ以上は踏み込まない、そういう変わり方だった。 「お母さん、沙耶が頑張ってること、ちゃんと知ってるからね」 「うん」 「無理しないで。でも頑張って」 「矛盾してるよ」と沙耶は笑った。 「矛盾してていいの。どっちも本当のことだから」 電話を切った後、沙耶はしばらくスマートフォンを持ったまま座っていた。 母の声が、まだ耳に残っていた。 夜、達哉が帰ってきた。 夕食を終えて、食器を洗いながら、沙耶はふと思った。 今日のことを、話してみようか。 神崎からの返信のこと。「予想を超えていた」という言葉のこと。来週また打ち合わせがあること。話したかった。誰かに──できれば、一番近くにいる人に、話したかった。 「ねえ、達哉」 「ん」 達哉はソファで足を伸ばして、テレビを見ていた。 「仕事で、ちょっと大きめの案件が入りそうで」 「ふーん」 画面から目を離さない。 「IT系の会社なんだけど、ブランディングを一から作る仕事で」 「IT系って、胡散臭いとこ多いよね」 沙耶は、その言葉を一瞬、うまく処理できなかった。 胡散臭い。 「そんなことないと思うけど」 「まあ、気をつけなよ。フリーランスって足元見られるから」 それだけ言って、達哉はテレビの音量を少し上げた。 会話が、終わった。 沙耶は洗い物を再開した。水の音が、キッチンに響く。 さっきまで胸の中にあった温かさが、すうっと薄くなっていく。でも──今日は完全には消えなかった。 胡散臭い。 その言葉は確かに刺さった。でも今日の沙耶には、神崎のメールがあった。母の「ちゃんとすごい」があった。それらは達哉の一言で消えるほど、薄いものではなかった。 杭は、抜けない。 沙耶は最後の皿を洗い終えて、水を止めた。 今日は、いい日だった。 達哉が何と言おうと──今日は、いい日だった。メッセージが届いたのは、月曜日の朝だった。 スマートフォンを手に取ると、通知の送り主に「お義母さん」と表示されていた。沙耶は少し間を置いてから、画面を開いた。 先日はごめんなさいね。達哉のこと、よろしくお願いします。 短いメッセージだった。 沙耶は二回読んだ。 「先日はごめんなさいね」が最初にあった。義実家での食事の日のことを指しているのだろう、と沙耶は思った。台所で言われた言葉──「あなたがもう少し上手くやってあげれば」「慣れるものよ」。あの言葉への謝罪、のように見えた。 でも「達哉のこと、よろしくお願いします」が後にあった。 謝罪が前にあって、お願いが後にある。 その順番を、沙耶はしばらく見ていた。 謝罪のように見えて、謝罪ではなかった。 「よろしくお願いします」が、本題だった。 先日のことを詫びながら、同時に、沙耶に達哉の世話を続けるよう求めている。二つが一つのメッセージの中に、きれいに収まっていた。 以前の沙耶なら、すぐに返信していた。 「こちらこそ、よろしくお願いします」と打って、送信していた。景子の求める答えを、考える前に返していた。そうすることが、円滑に物事を進める方法だと思っていたから。 今日は──その言葉が、出てこなかった。 打ちかけて、消した。 何と返せばいいか、わからなかった。 「こちらこそ」は違う気がした。景子の謝罪を受け取って、同じよう
十一月の終わり、打ち合わせは午後二時からだった。 神崎のオフィスに着くと、チームの二人はすでに席についていた。沙耶が入ると、「お疲れ様です」と声がかかった。 三ヶ月前、初めてここに来た日には、この部屋の空気に少し緊張した。今日はそれがなかった。 「始めましょうか」と神崎が言った。 新ブランドのターゲット設定について、沙耶が用意してきた案をもとに、一時間ほど議論した。チームの意見が出て、神崎が整理して、沙耶がまた言葉を足す。その往復が、今日はよく機能していた。 打ち合わせが終わって、チームの二人が席を外した。 神崎がコーヒーを二つ持ってきた。 「少しいいですか」 「岸谷さんは」と神崎は言った。「どんなブランドを作りたいですか。自分自身の、という意味で」 仕事の延長線上にある質問だった。 でも沙耶には、その問いが仕事の外側まで届いた。 「……考えたことが、なかったです」 正直に言った。 「そうですか」 「自分が作りたいもの、というより、相手が必要としているものを考えてきた気がして。クライアントが何を求めているか、どう応えるか──そちらに、ずっと意識が向いていたので」 神崎はコーヒーカップを両手で持って、少し考えるように間を置いた。 「それは強みでもある」 「強み」 「相手を見
珍しいことだった。 「今日、遅くなる」 朝、達哉がそれだけ言って出ていった。何時になるかは言わなかった。沙耶も聞かなかった。 扉が閉まって、鍵がかかる音がした。 午前中は、神崎から送られてきた資料の確認をした。 新ブランドのターゲット設定について、神崎がいくつかの案を出していた。沙耶はそれぞれにコメントを書き込みながら、自分の考えを整理した。 誰に届けるか。誰を選ぶか。 神崎の言葉が、作業の中にまだ生きていた。 午後になって、沙耶は好きな音楽をかけた。 いつもはイヤホンをつけて作業する。達哉がいると、音が気になると言うから。でも今日は一人だったから、小さなスピーカーから流した。部屋に音楽が広がった。それだけのことが、少し特別に感じられた。 夕方、小腹が空いたので、冷蔵庫にあったチーズと、クラッカーを出した。 夕飯の時間を気にせずに食べた。 達哉がいる日は、夕飯の時間が決まっている。七時までには食卓に出す。それが暗黙のルールだった。誰かが決めたわけではなかった。でも七時を過ぎると、達哉の機嫌が少し変わった。だから沙耶は六時半には台所に立っていた。 今日は、その時間が来ても台所に立たなかった。 七時になった。 クラッカーをもう一枚食べながら、資料の続きを読んだ。 八時を過ぎた頃、沙耶は一人でご飯を食べた。 冷蔵庫にあったもので、簡単に作った。味噌汁と、卵焼きと、残
誕生日当日は、土曜日だった。 午前中、沙耶は仕事の作業を一段落させてから、スマートフォンを手に取った。達哉はリビングにいた。沙耶は寝室に移って、扉を閉めた。 実家に電話するのに、扉を閉める必要はないはずだった。でも今日は、閉めたかった。 呼び出し音が三回鳴った。 「はい」 母の声だった。 「お母さん、お父さんいる?」 「いるよ、ちょっと待って」 受話器が置かれる音がした。遠くで「宏幸さん、沙耶から」という母の声が聞こえた。それから少し間があって、足音が近づいてきた。 「ああ」 父の声だった。電話口の父はいつも、最初の一言が「ああ」だった。 「誕生日おめでとう」 「……ああ」 二つ目の「ああ」は、最初のものより少し低かった。照れているときの声だ、と沙耶は知っていた。 しばらく、沈黙があった。 父との電話は、いつもこうだった。沈黙が長くて、言葉が短い。慣れない頃は、何か話さなければと焦った。今は──この沈黙の中に、ちゃんと父がいることがわかるから、焦らない。 「プレゼント、送ったよ。届いてる?」 「届いてる」 「気に入ってもらえるといいんだけど」 「……使う」 そ
父の誕生日は、十一月の終わりだった。 沙耶は一人でデパートへ行った。 達哉には「出かけてくる」とだけ言った。どこへ、とは言わなかった。父の誕生日だから、と説明することもできた。でも──説明しなかった。 説明する必要がなかったから、という理由が、今の沙耶には自然に出てくるようになっていた。 平日の午後、デパートの中は人が少なかった。 沙耶はエスカレーターを上りながら、父に何を贈るかを考えた。毎年、この時期になると考える。毎年、答えを出すのに時間がかかる。 父は欲しいものを言わない人だった。 聞いても「何もいらない」と言う。「何でもいい」とも言わない。ただ「何もいらない」と言って、それ以上話さない。だから沙耶はいつも、父が何を好きかを思い出しながら、売り場を歩く。 今年は何にしよう。 紳士用品のフロアを歩きながら、沙耶は父のことを考えた。 無口な人だった。家族の中で一番、言葉が少なかった。食卓でも、リビングでも、父の声が聞こえる時間は短かった。でもその分、たまに言う言葉が、妙に重かった。 「無理すんな」と電話口で言われたとき、沙耶は泣いた。五文字だった。それだけで、泣いた。 どうして五文字で泣けるんだろう、と思いながら泣いた。 ハンカチの売り場の前で足が止まった。父はハンカチをよく使う。いつもズボンのポケットに入れている。布製の、柄のないもの。沙耶が子どもの頃、転んで膝を擦ったとき、父はそのハンカチで血を拭いてくれた。何も言わずに、しゃがんで、丁寧に拭いた。 沙耶はハンカチを三枚
画面の向こうで、神崎が資料を開いた。オンライン打ち合わせの背景は、いつもと同じオフィスの一角だった。本棚と、白い壁と、観葉植物の端。余分なものが映り込まない角度を、この人はいつも選んでいる。「今日は少し、僕の話をしてもいいですか」神崎が言った。議題の確認よりも先に、そう切り出した。「もちろんです」「ブランドの言葉を作るとき、僕がまず考えることがあって」「はい」「そのブランドを、嫌いな人は誰か、ということです」沙耶はペンを持ったまま、少し止まった。「嫌いな人、ですか」「そうです」と神崎は言った。表情は穏やかだった。「好きになってくれる人を考えるより、先に」「それは──なぜ」「全員に好かれようとすると、誰の心にも届かない。言葉が丸くなりすぎて、触れても何も感じないものになる」神崎は資料のページをめくった。「誰かに届けようとするとき、その誰かを選ぶことが必要です。選ぶということは、別の誰かを選ばないということでもある。それを恐れると、ブランドは輪郭を失う」沙耶はメモを取った。誰かを選ぶことが、誰かを救うことになる。書きながら、手が少し止まった。「岸谷さんは、これまでのクライアントワークで、そこを意識したことはありましたか」神崎に聞かれて、沙耶は少し考えた。「……意識していなかったと思います。届けたい人を考えることはあっても、届けなくていい人を考えたことは、なかった気がして」